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ガンカモ類重要生息地ネットワーク支援・鳥類学研究者グループ:JOGA 『観文禽譜』が残したガン類の記録について鈴木 道男(東北大学大学院国際文化研究科) |
徳川幕府の若年寄・佐野藩主堀田正敦(1755−1832)の『観文禽譜』(1831)は、時の学者を動員して40年余りをかけて完成された江戸時代最大の鳥類図鑑・鳥学書である。自家や他の大名家、学者らの蔵図を敷き写した図譜の資料的価値も高い。正敦が仙台伊達家の出身であり、ガン類が豊富な土地で若い頃から猟に親しんでいたため、『観文禽譜』には類書には見られない量と質のガン類の記事が見られる。正敦自身のガン類に対する観察も細やかで、思い入れの深さがしのばれる。発表者は今年、『観文禽譜』の全貌を紹介する機会を得た(平凡社刊『江戸鳥類大図鑑』)。ガン類についての豊富な観察記録、民俗資料、和漢の文献の抄録などのなかから、現在のガン類の保護・羽数回復の観点から有意義と思われるものを拾って紹介したい。あらかじめいくつかの例を提示しておく。
マガン:シジュウカラガンとは異なり、麦畑には入ってこない。鷹にやられて負傷した雁を集団で救おうとする「友雁」(これは家族群の行動を観察したものかもしれない)など、生態の記録が多い。大黒屋光太夫に対する尋問から、ロシアにおける雁の状況と、ロシアで夏にガンカモ類の猟を禁じて保護がなされているなどの内容が引かれている。またいわゆる「雁風呂」が実は中国に由来する話であることも示唆されているほか、「媒雁」(おとりがん)を使ったものなど、猟法も紹介されている。仙台では18世紀の後半、シジュウカラガンに次いで多いガンだった。
カリガネ:奥州には秋には来ず、春三月(旧暦)の帰雁の時期に多く来る、とある。この鳥が激減した現在では、当時群れをなしていたカリガネの渡りのコースと時期を推定するのはきわめて難しい。
ハクガン:正敦が仙台にいて狩りを楽しんだ1770−80年代半ばには仙台で極めて少なくなっていたが、それより前には少なくなく、次第に減ってきた旨記されている。かつては食味が論じられるほどポピュラーな鳥だったようである。
シジュウカラガン:18世紀の後半、仙台平野に最も多く渡来したガン。ガンの猟をすると、10のうち7−8はこの鳥だったという。雁避けの縄を張った畑にも入るので、他の雁よりも実りを害することが甚だしい、とある。次第に減少したハクガンに代わって数が増えてきたという興味深い記述もある。
ハイイロガン:確かな記事がない。
コクガン:正敦は松島湾で捕獲されたコクガンを食べた。あぶらが少なくまずいという。当時「にゐがた雁」と呼ばれていたが、正敦が新潟の人にいるかどうか確かめたところ、知らないとの答えを得ている。松島湾では、ノリなどの養殖が盛んになってノリヒビが乱立する前はアマモ場が多く、コクガンはそこに付いていたのだろう。
ヒシクイ:ヒシクイの最大のものを「ぬま太郎」という、とあり、ヒシクイとオオヒシクイの亜種の区別と生息環境の違いが認識されていたことがうかがわれるが、確定はできない。おそらく、重要な蛋白源としていた地元の人は明確に認識していたのだろう。
サカツラガン:正敦は仙台で目撃している。「江戸ひしくひ」などの異称も記されている。
(アオガン):我が国にいないアオガンがいつ命名されたものかについてはなお不明だが、大黒屋光太夫を日本に送り返してきたラクスマンが持参したアオガンの図は、すでに「あをがん」とされている。
[JOGA第8回集会「希少雁類復元・回復計画の経過と意義・今後の課題」2006年9月15日]
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このJOGAページは「東アジア地域ガンカモ類保全行動計画・重要生息地ネットワーク」公式ホームページ(http://www.jawgp.org/anet/)の一部です.URL: http://www.jawgp.org/anet/jg011b.htm.2006年8月31日掲載.